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小麦・小麦粉の歴史

小麦の発見

★野生の麦から栽培へ
 1万年ほど前の西アジア、イラクあたりの山岳地帯の草原には、野生の小麦や大麦が他の雑草に混ざって生えていました。乾燥した暑い夏の終わり頃には、それらに実がつき、周辺の原始人たちは、それらの実が地面に落ちる前に茎からていねいに採るか、地面に落ちたのを一粒ずつ拾い集め、野生の果物、木の実、種子、草などとともに食べていたと考えられます。
 雑草の中では、大麦と小麦が比較的多く生えていて、①他の種子などに比べて粒が少し大きめで、集めやすかった、②脂肪が多く含まれる野生の種子などと異なり、でんぷんが多くてたくさん食べてもおなかに安心だった、③また、野生の植物には有毒なものが多い中で大麦や小麦は全く無毒だったことなども、大麦と小麦を人類が選んだ理由といえるでしょう。そして、④大麦と小麦が比較的栽培しやすかったことも、原始人たちにとっては幸せなことでした。1万〜8,500年前の時代には、野生と栽培した麦の両方を、しかも小麦と大麦の区別なく、豆や雑穀と混ざったままで石と石の間に挟んで粗く砕き、焼いて食べていたようです。「麦の食文化」の始まりでした。

★大麦のおかゆから小麦のパンへ
 土器が使われ始めた紀元前6,500年ころには、小麦よりも大麦の方が好まれて栽培されるようになりました。その理由としては、西アジアのような乾燥してあまり肥沃でない土地での栽培には大麦の方が向いており、収量が多かったことと、小麦より収穫が1〜2週間早いので、雨が降る前に食糧を確保できたことが考えられます。この時代には、小麦は山岳地帯から平野に広がり、メソポタミア平原から地中海沿岸、エジプトにまで達しました。
 大麦は臼で粗挽きし、土器で煮て「おかゆ」のように食べられました。小麦のおかゆはボタボタの感じになりますが(グルテンが固まるため)、大麦はさらっと美味しいおかゆになりました。
 中国でも先秦時代までは、主に大麦のおかゆが食べられていました。漢の時代には、「麥(むぎ)」と言う言葉は、大麦と小麦に使い分けられるようになりました。穂や粒の大きさではなく、偉い人を「大人」と呼んだように、主要なものを「大」、従属的なものを「小」と区別したと言われています。当時の中国でも大麦は小麦よりも大事にされていたことが分かります。
図1 サドルカーン
 紀元前3,000年頃の古代エジプト時代に、〔図1〕「サドルカーン」と呼ばれる粉挽き専用の平らで大きな石がつくられました。「サドル」は鞍、「カーン」は石臼を指し、このサドルカーンの上に人がひざをついて座り、全体の3分の2くらいのところに小麦粒をのせて、細長い棒状の別の石を両手で握って体重をかけながら前後運動を繰り返すと、座ったところの手前の方が少し髙いので、小麦に圧力を加えやすく、すりつぶすと手前にすり残しが、向こうに挽いた粉がたまる仕組みです。
小麦粒に少し水を加えて湿り気を持たせてから、サドルカーンですりつぶすと、外皮は比較的粗いまま取れ、内部は細かい粉になります。ふるい分けや風選によって、外皮を大まかに分けていたと思われます。また、この時代には、木の幹でつくった乳鉢と木製の乳棒を用いて粉を挽くことも行われてました。
 こうして、小麦の外皮を取り除いた粉ができるようになり、この小麦の粉に水を加えて捏ねると 弾力と粘りのある塊になり、オーブンで焼くと、比較的軟らかくて、おいしいものができました。大麦の粉で焼いたものは硬く、小麦を使うのとは大違いでした。
★偶然から生まれた美味しい発酵パン
 その後、石臼が次々と改良されて、外皮を上手に取り除いたきれいな粉ができるようになると、人々は大麦の粉よりも小麦の粉の方がいつも美味しいパンができることを知り、またパン以外にもいろいろな食べ方ができることも分かりました。エジプト、インド、中国などで、ある時期から大麦ではなく小麦を主として食べるようになりまし。人々が美味しさを求めた結果、大麦と小麦の位置が逆転したのです。
 小麦の粉を使うようになり、古代エジプトでのパンづくりは大きく進歩しました。ある時、小麦の粉に水を加えて捏ねた生地をしばらく放っておいたところ、気温が高かったために大きく膨らみ、表面から泡が吹き出して腐ったようになりました。ところが、これをオーブンで焼くと、それまでよりも香ばしく、軟らかくて美味しいパンになったのです。これが「発酵パン」の始まりです。
 発酵してパンをつくるようになると、小麦の粉のよく膨らむ性質が活かされるので、大麦との主役の交代は決定的になりました。偶然から見つかったパンの発酵は、空気中の細菌と野生の酵母による発酵でしたが、これを最初に発見した時、古代人たちは非常に驚き、神の贈物に違いないと信じました。
 やがて人々は、食用としての発酵パンを焼くだけでなく、その発酵パンからビールをつくることも覚えました。パンをちぎって、水に浸して発酵させたものをビールとして飲み、逆に、このビールからパン種をつくり、それを使ったパン生地を発酵させて焼きました。
 ドイツには、「ビールは液体のパン」という言葉がありますが、大昔からパンとビールはとても密接な関係にあったのです。(その後、ビールの原料としてはナツメヤシが使われるようになり、現在の麦芽が定着しました。)
 発酵パンが始まってから現在まで、「小麦の時代」は続いており、パンを発酵でつくるようになった後に興ったギリシア、ローマ、西ヨーロッパなどの文明では大麦の時代はなく、最初から小麦を食べられていました。

製粉方法の改良

図2 ロータリーカーン
★石臼からロール製粉へ
 サドルカーンには工夫、改良が加えられましたが、これで粉を挽くのは大変な仕事でした。たくさんの粉を簡単に挽けるようになったのは、手で回転させながら粉を挽く 「石臼」が発明されてからでした。今のトルコのあたりに紀元前1270〜750年ころ栄えた古代王国ウラルトウの遺跡から、世界で最古の回転式石臼「ロータリーカーン」が発見されました。〔図2〕のような形で、円形の2つの石を上下に重ねて、中心の軸の周りに回転させるという「回転運動」の応用したものでした。
図3 ポンペイのパン焼き窯
 粉挽きはもともと家族で行われましたが、ローマ時代には職業として営まれるようになりました。 石臼にも工夫がされて、奴隸や家畜を使って粉がたくさんつくられるようになりました。イタリア南部のベスビオ火山が大噴火して古代都市ポンペイが埋まったのは、紀元79年8月24日でしたが、この造跡の発掘によって、紀元前6世紀に興り、ローマ帝国の支配下で発展したこの古代都市での粉挽きとパン食生活をしのばせるものが、いくつも出土しています。
 当時は、粉挽きとパン焼きの設備が同じところに、しかも町や村の中心にあるのが 普通でした。この遺跡でも、二階建ての建物の一階に、馬やロバなどを使って動かしたと思われる粉挽き用のいくつかの石臼とパン焼き用のオーブンが、置かれていました。特に、固い石を積み重ねてつくったオーブンは精巧にできていて、現在のものと機能的にはほとんど差がなかったと思われます。〔図3〕のように平らな火床の上に円形の屋根を組み合わせたもので、火床の上で火をたくとオーブン全体に熱がこもって、屋根も十分に熱くなるので、灰を取り出してから、この熱せられた空気でパンを焼きました。壁画には、表面に切り込みのある円形のパンを売っている様子が描かれています。(パンの表面に切り込みを入れるのはこの時代の特徴です。)
 紀元前5〜4世紀頃、古代ギリシアが栄えた時代には、初め、人々は火や灰の中に生地を直接入れてパンを焼いていましたが、小麦をエジプトや黒海沿岸から買うようになると、パンの製法やオーブンもエジプトから伝えられました。これらはギリシア人の手で改良され、後にローマ帝国に伝えられて、近代製パン法の基礎になりました。
 古くからのワインづくりとパン焼きが結び付いて、「酵母(イースト)」がはじめて人の手で培養されたのも、この時代でした。イーストを使うことでパン生地の発酵が安定するようになり、パン職人も厳しく訓練され、パンの品質が規制されて、大きさ、形、味も定められたものがつくられるようになりました。
図4 ローマ時代の水車製粉工場
★水車、風車、蒸気機関を使う製粉へ
 社会が発展し、人口が増える中で小麦粉の消費も増えていきますが、奴隸や家畜を使っての粉挽きには量的限界がありました。紀元前400年頃には、ギリシアで「水車」を使った製粉工場がつくられました。その100年後には、ローマ人も水車を利用した製粉工場をつくっています〔図4〕。
 しかし、水がないところや平らな土地では水車は使えません。600年頃、東洋で発明された「風車」がヨーロッパに伝えられ、オランダやイギリスの東海岸で風車を使った製粉工場が発達しました。
 動力が水車や風車になっても、17世紀頃までは、小麦を一回挽いて粉と外皮を分けるだけのものでした。17世紀のフランスで、石臼で挽いた小麦をふるいで分け、粗い部分をまた石臼で挽いてふるいで分けることを繰り返す、今日の製粉技術と同じ考え方の段階式製粉方法が始まりました。
 そして、1776年にイギリスにおいてジェームズ・ワットが蒸気機関を開発し、1784年に蒸気機関を使い30もの石臼を動かす製粉工場がイギリスのウェストミンスターにつくられました。その後、労働力が不足していたアメリカでは、機械装置間の搬送にエレベーターやコンベヤを採用して、製粉工場の「自動化」への試みが進みましたが、依然として製粉には石臼が用いられました。
 1854年にはアメリカで「ピュリファイヤー」が考案され、細かくなったふすま片を風選で粉から分別できるようになって、さらに品質の良い小麦粉がつくれるようになりました。当時、ピュリファイヤーを使ってつくられた粉は「パテント- フラワー」と呼ばれましたが、今日でも、アメリカでは標準的な小麦粉の呼称としてこの言葉が残っています。

★ロールによる製粉の革命
 回転する二本のロールの間を通して小麦を潰す「ロール式製粉機」は1833年にスイスで初めて実用化され、ロール式製粉機だけを用いる製粉工場は、1870年頃、オーストリア人によって建設されました。これをきっかけに、石臼に代えてロール式製粉機を備えた製粉工場が次々と建設され、品質の良い小麦粉が大量に生産できるようになりました。
 国によって発展のスピードに差はありますが、現在ではロール製粉機は世界に広まり、また製粉以外の工程にも新しい設備や技術が順次導入されて、いろいろな品質の小麦粉を衛生的につくり分けることができるコンピューター制御の全自動式製粉システムが完成しました。

日本人と小麦

★古くから食べられてきためんや菓子
 日本では、弥生時代の中末期には小麦や大麦が畑でつくられていたことが分かっており、日本人は麦を何らかの形で食べていたと考えられます。4世紀の大和王権時代は、米とともに麦、粟、稗なども主食とし、8世紀には、朝廷が小麦や大麦の畑作を奨励しました。「麦」は万葉集にも登場します。
 「うどん」や「そうめん」は、もととなる料理は中国から伝来しました。時期は飛鳥時代と推定され、1,000年以上も前から日本人は「めん」と呼べるものを食べていたことになりますが、当時のめんは、今のものとはかなり違っていました。
 室町時代の「庭訓往来」には、齟鈍、索麵、棊子麵などの名前が出てきます。当時、これらは「点心」と呼ばれて僧侶の間食でしたが、茶の湯の普及とともに一般の人も食べるようになりました。その後、室町時代から安土桃山時代にかけて、日本の風土や人々の嗜好に合うよう変化し、日本独特のめん類へと発展しました。
 小麦粉菓子も歴史は古く、8世紀に遣唐使たちが仏教とともに中国から「唐菓子」を持ち帰りました。「まんじゅう」は鎌倉時代の初めに生まれました。「せんべい」は弘法大師が中国から持ち帰ったと伝えられますが、当時は米粉や葛を素材とし、小麦粉せんべいは江戸時代に始まりました。
 また、室町時代にキリスト教伝来とともに、ポルトガルやオランダから砂糖を使った菓子が伝わりました。「カスティラ」、「ボーロ」、「コンペイトウ」、「カルメラ」、「ビスカトウ」、「アルヘイトウ」などで、当時は「南蛮菓子」と呼ばれました。これらは小麦粉のほかに、砂糖、卵、牛乳などを配合してつくる点で、それまでの唐菓子の系統とはつくり方、味および食感が全く異なり、キリスト教に対する弾圧下で、その製法が密かに伝えられることも多く、やがて日本人の好みに合うように変化していきました。伝来した土地名にちなんだ「長崎かすてら」とか「佐賀ボーロ」のような名前が、今でも残っています。
 庶民的な小麦粉菓子の代表ともいえる「今川焼き」や「たい焼き」は、江戸時代に登場しました。江戸時代までは、日本でも、小麦よりも大麦の方が食糧用としては重要だったようです。

★明治以降広まったパン
 パンは、室町時代末期に南蛮人宣教師によってもたらされましたが、江戸時代にも一般に普及することはありませんでした。幕末の1842(天保13)年に、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門が、軍隊の兵糧用として自邸内の窯でパンを焼いたことから、日本のパンの祖とされています。
 明治時代に入り、欧米の食文化が流入する中で、1872(明治5)年に、東京・銀座で今の木村屋総本店の創始者、木村安兵衛が「あんパン」を売り出しました。.小麦粉、その他の原材料に日本古来の酒種を加えて捏ね、発酵して生地をつくり、あずきあんを包み、オーブンで焼いたものでした。この和洋融合の作品とも言えるあんパンは大変な人気を呼びました。
 明治30年代の終わりころになって、同じ木村屋から「ジャムパン」が、東京・本郷に店を構えていた中村屋(現在の新宿中村屋)から「クリームパン」が登場しました。
 明治時代、外国人と接する機会が多くなった人々の間にパン食熱が高まり、東京、横浜、神戸などにパン屋が何軒か開店しました。明治から大正、昭和へとパンの消費は少しずつ伸びましたが、それでも1937(昭和12)年ころには、食パンに換算して1人当たり1年間に4斤(1斤とは、6枚か8枚にスライスして売られている四角い形のパンです。現在は1斤平均360gくらいとされます。)しか食べていませんでした。
 パン食の習慣がなかった日本人の食生活にパンが広まったのは、戦後の食料不足時代に食べたコッペパンや学校給食で出されたパンによってでした。

★多様化した小麦粉の用途
 日本人の食べる小麦粉食品の種類は、第二次世界大戦後豊富なものとなりました。現在食べている小麦粉食品の種類は、おそらく世界でも一番多いと考えられます。即席ラーメンなどの日本で開発された小麦粉の利用方法が、外国にも紹介され、好まれて食べられるようになりました。
 経済成長に伴って、肉、乳製品、野菜、果物…と、副食が量的にも質的にも豊かになり、それに合う小麦粉食品への需要が高まりました。また、多様性、簡便さ(即席性)、ファッション性などが食事に求められるようになり、外食や中食の機会も増えました。現在の日本人の食生活には、いろいろなタイプのパン、うどん、ラーメン、即席めん、乾めん、ケーキ、ビスケット、まんじゅうなど多種類の小麦粉食品が取り込まれ、小麦粉は、まさに、食生活を健康で豊かなものにしてくれる「主役」となっています。

★明治以降発展した日本の製粉
 日本でも古くから製粉が行われていましたが、明治の初めまでは農家や商人が副業的に行っていた人力による石臼製粉がほとんどで、そのほかに、小規模な水車製粉所が少しあった程度でした。
 明治5(1872)年に政府が石臼式製粉機をフランスから購入して、東京・浅草蔵前に水車を動力にした官営の機械製粉工場を建設され、明治20年代以降、現在に続く大手製粉会社の前身の会社が相次いで創立される中で機械製粉が本格化しました。
 第二次世界大戦後の製粉産業は、政府の食糧政策の影響を大きく受けながら、生活様式の洋風化、食の多様化、簡便志向、グルメ志向、健康志向など時代のニーズに応えつつ発展を遂げ、現在では、世界でもトップレベルの高度に自動化された数多くの製粉工場が、培ってきた技術力を駆使して、それぞれの用途に合った、安定した品質の小麦粉を衛生的に製造しています。

(参考文献) 長尾精一編「小麦粉の科学」(1995年)
       一般財団法人製粉振興会編「小麦粉の魅力-(再改訂版)」(2022年)
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